2009年07月02日

大学内では通称「エルムの杜」とも呼ばれ

大学内では通称「エルムの杜」とも呼ばれ、札幌市中心部に所在している。敷地面積は177万m?。[5]

キャンパス内は南北約1.5キロのメインストリートの左右に各施設が並ぶ配置。キャンパスのすぐ東を南北に延びる札幌市営地下鉄南北線のさっぽろ駅付近から北12条駅を抜け、北18条駅をすぎるあたりまでキャンパスが広がっている。付属農場の部分も加えると、その北端は北24条駅の辺りにまで達する。目的の施設・学部・研究科などによって最寄り駅は大きく異なる。
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札幌市の発展とともに、広大なキャンパスは都心交通の障害として捉えられた。このため、2001年にキャンパスの北部を東西に貫く地下道路トンネル「環状通エルムトンネル」が開通した。

正門を入って北側の大学事務局(本部)は、旧制北海道帝国大学予科が校舎として使用していた建物。西に進むと広い芝生の「中央ローン」がある。中央ローンを流れる小川はサクシュコトニ川で、現在は人工の川であるが、かつては鮭も遡上した天然河川であった。

中央ローンの北には、旧制東北帝国大学農科大学以来の木造の教室である「古河記念講堂」が残り、西には時計塔がある「農学部本館」、南には「クラーク像」と、北大の象徴が集まっている。メインストリート南端にあるクラーク会館は、国立大学初の学生会館である。

2009年06月13日

荷電粒子は磁場中を通るとローレンツ力を受けて曲げられる

荷電粒子は磁場中を通るとローレンツ力を受けて曲げられる。これを利用して荷電粒子に円形の軌道を描かせながら加速する加速器を作ることができる。粒子の軌道を曲げる時、電磁波がシンクロトロン放射として放射される。近年ではこのシンクロトロン放射は放射光として利用され、そのための専用の加速器施設も建設されている。

サイクロトロン [編集]
磁場を用いて荷電粒子に円形の軌道を描かせて加速する加速器のうち、磁場が時間的に変化しないものをサイクロトロン(cyclotron)と呼ぶ。

古典的なサイクロトロン [編集]
サイクロトロンの基本的な構成は一様磁場中に設置された2つの半円形の電極である。電極は直線になっている側が開放された中空の構造で、開放された端が向かい合うように設置されている。

加速を開始するためにはサイクロトロンの中心付近に荷電粒子を入射し、電極に交流電圧を印加する。電極間の電場によって加速された荷電粒子は電極の中の一様電場中で磁場から受けるローレンツ力のみをうけて円形軌道を描き、再びギャップに到達する。このときにちょうど反対の電場が電極間に生じるような磁場、電極間電圧の周波数を選んでやると粒子は再び加速されもうひとつの電極の中を先ほどより半径の大きな円形軌道を描き飛行する。軌道の拡大と粒子の飛行速度の増加がつりあうため次に粒子がギャップに到達するまでにかかる時間は先ほどと同じである(等時性)。したがって、一旦加速をはじめた粒子はギャップに到達するごとに加速され大きなエネルギーを比較的容易に達成することができる。

以上は理想的なサイクロトロンに関する記述であるが、実際にはいくつかの制限がある。まず粒子の散逸を防ぎ安定した加速を実現するために粒子を収束(フォーカシング)する必要があり、そのためには磁場を一様な状態からずらさなければならないということである。もうひとつは、粒子が相対論的速度(光速に近い速度)まで加速されるともはや上記の等時性は成り立たず加速を継続することが出来なくなるという点である。
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これらの問題点を解消するために歴史的には様々な工夫がなされてきたが、エネルギーフロンティアの開拓はシンクロトロンに道を譲ることとなった。現代のサイクロトロンはセクター型にすることにより上記の問題を部分的に解決し、大強度重イオン加速器として原子核物理学の発展に寄与している。

現代の高エネルギー加速器は一部の例外を除きシンクロトロンである。しかし同じシンクロトロンであっても加速対象の粒子によって設計は異なる。

レプトンコライダー [編集]
レプトン(主に電子・陽電子)は電荷に比べて質量が軽いため軌道を曲げるのは簡単であるが、速度が速いため円形加速器を用いた場合シンクロトロン輻射の影響でエネルギーロスが大きい。したがってベンディングマグネットは小さいものでもかまわないが加速装置が巨大になり、設計にも困難をきたす。そのため2004年現在において次世代高エネルギー電子コライダーとして線形加速器を用いたリニアコライダーを建設することが計画されている。

ハドロンコライダー [編集]
ハドロン(主に陽子・反陽子)は電荷に比べて質量が重いため高エネルギーで軌道を曲げてもシンクロトロン放射をおこしにくい。そのため強力な磁石で、半径の小さな高エネルギー加速器ができる。

重イオンコライダー [編集]
高エネルギー重イオン同士の衝突のような高温高密度状態ではクォークグルーオンプラズマのような新しい物質相が生成されると考えられているので、このような状態を作り出すための重イオン加速器が存在する。重イオンは陽子よりもさらに曲げにくいためにその設計はより困難である。現在もっともエネルギーの高い重イオンコライダーは、アメリカブルックヘブン国立研究所にある相対論的重イオンコライダー(Relativistic Heavy Ion Collider, RHIC)である。CERN(セルン)の次世代ハドロンコライダーであるLHC(ラージハドロンコライダー,Large Hadron Collider)は重イオンコライダー実験を行うこともできるように計画されている。

2009年06月09日

細菌叢調査(さいきんそうちょうさ)

細菌叢調査(さいきんそうちょうさ)(Environmental Sampling)とは、ある環境中に存在するであろう細菌、ウイルス、原虫などを調査するものである。「細菌叢」と呼ばれるが、単に細菌ではなく、広く「微生物」を対象としている。それ故、単に細菌調査、環境(微生物)調査や(環境)サーベイランスと呼ばれることもある。

調査は、医学、歯学、薬学、獣医学はもとより、栄養学、理学、農学など幅広い分野の研究者が従事している。
近畿東海 若返り 資産運用 リフォーム エージェント 育児 介護 インテリア 健康 墓石 海外留学 公園 学習 国内 美容 雇用 理容 旅行代理店 調査 健康 リラク 生活習慣病 家具 ステイ ギフト 外国語 旅行 バスト 特産物 養毛 税理士 葬儀 エイジ 就職 結婚 健康 仏具 生活習慣病 贈り物 墓地 リサイクル 楽器教室 スポット 矯正 交通地図 美容 建売 結婚 信託 ペット

細菌叢調査には企業が開発販売されているキットを用いることが一般的である。
ふきふきチェック(栄研器材)
ぺたんチェック(栄研器材)
N?IDテスト・SP?18「ニッスイ」(日水製薬)
培地(一般増殖用培地)
寒天培地
血液寒天培地
チョコレート培地
GMA培地
ミュラーヒントン培地
チオグリコール酸塩培地
クックドミート培地
特殊菌増殖用・分離用培地
マンニット食塩培地(ブドウ球菌)
No.110培地(ブドウ球菌)
トッド・ヒューウイット培地(レンサ球菌)
MS培地(口腔内レンサ球菌)
EF培地(腸球菌)
NAC培地(緑膿菌)
荒川培地(ジフテリア菌)
サブロー培地(真菌)
コーンミール培地(カンジダ)
カンジダGS培地(カンジダ)
B-CYE培地(レジオネラ)
小川培地(結核)
デュボス培地(結核)
ソートン培地(結核)
PPLO培地(マイコプラズマ)
ボルデージャクソン培地(百日咳菌)
サイアーマーチン培地(淋菌)
SS培地(サルモネラ、赤痢)
TCBS培地(サルモネラ、赤痢)
CW培地(ウェルシュ菌)
LBS培地(乳酸菌)
スキロー培地(カンピロバクター)
バツラー培地(カンピロバクター)
器具・材料
白金耳
試験管
ピペット
スポイト
スピッツ
遠沈管
エッペンドルフチューブ
ガスバーナー
竹串
生理食塩水
機器
遠心分離機
電子顕微鏡/光学顕微鏡
孵卵器/インキュベーター

2009年04月25日

ヨハネス4世 (トレビゾンド皇帝)

ヨハネス4世(Ιωάννης Δ', Iōannēs IV, ? - 1458年)は、トレビゾンド帝国の皇帝(在位:1429年 - 1458年)。アレクシオス4世の子。
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この頃になるとオスマン朝の勢力が台頭し、トレビゾンド帝国はなすすべもない状況に追い込まれていた。1442年にはオスマン朝のスルタン・ムラト2世の侵攻を受けて帝国領は略奪を受ける有様であった。

このため、ヨハネス4世はオスマン朝に対抗するため、サファービー教団長のジュネイドやローマ教皇・カリストゥス3世、イスファンディヤル公国やカラマン君侯国のイブラヒム・ベイと同盟を結び、さらに白羊朝の第2代皇帝ウズン・ハサンと婚姻関係を結んで、オスマン朝と対抗した。このため、オスマン朝もヨハネス4世存命中はトレビゾンド帝国においそれと攻撃することが難しくなってしまったのである。

1458年死去。死後、オスマン朝の反撃が始まった。

ちなみに彼の孫娘はサファヴィー家に嫁ぎ、彼の曾孫はサファヴィー朝の初代皇帝となったイスマーイール1世にまでつながっている。

2009年04月08日

デスラッシュバウンド

デスラッシュバウンドとは、AIONのIZUMIが提唱する音楽ジャンルである。1980年代後半から1990年代前半にかけてこのジャンルの曲が作られた。

1983年にIZUMIがAIONを結成し、自らの圧倒的な速弾きを武器に破壊力のある超高速ヘヴィメタルを目指すが、既存の音楽ジャンルに捉われるのを嫌い、自らの音楽性について、DEATHとTHRASHという言葉を合成したデスラッシュと称し、その孤高の音を追求する生命体(バンド)をDEATHRASH BOUNDと名付けた造語である。
ここでいうデスラッシュとはあくまでIZUMIが作り出した造語であり、後にデスメタルシーンの中から出てきたデスラッシュと呼ばれるジャンルのバンド群とは全く音楽性が異なる(そもそも海外では「デスラッシュ」という呼称は用いられず、DEATH/THRASHと表記される)

AIONは一度解散し、85年に新たにAION、ジェイルベイト、KAISERを元にMEIN KAMPF(マインカンプ)を結成。このMEIN KAMPFには-DEATHRASH METAL- MEIN KAMPFという冠名が付けられた。エックス(X JAPAN)と時を同じく、派手なメイクと逆毛立てた過激な髪型、ひたすら高速で過激なメタルサウンドというスタイルで1年活動。「SPEEDER!!/WARNING FOR YOU」をリリースするも、86年5月17日の岸和田文化センターを最後にIZUMIとDEANが脱退、突如解散。IZUMI作曲のSPEEDER!!は、その後のAIONでもGRANDEUR(グランジャー)という曲名で演奏された。

ン新世紀 パートナ フコキ センター 真実の愛 オクシ ピンク バッハ マーケッ イスト バッテラ ショットバ レーシ ストラ パンク テレック オクシ スイッチ イエローサ バレル プノンペン 旅への扉 ロック しょうなん ベール スポイト こごみ グース ビンデ ロブス シャーレ リビエラ レーム ガクア スピン ラムネ カナキン トロポニン データフ ほろのべ マイセン テンポラリ きょうきょ ピングカー ザイソ ズロース プレート チュービ ンチェーン シラカン


2009年03月24日

名鉄7300系電車

名鉄7300系電車(めいてつ7300けいでんしゃ)は、1971年から1997年まで名古屋鉄道に在籍した元特急形電車である。

1997年には豊橋鉄道に譲渡され、渥美線で運行されていたが、2002年には全車廃車となった。
本系列で最大の特徴は、旧型車(3800系29両・800形1両)の機器を流用して車体を新造した車両のため、7000系パノラマカーと同等の車体であるものの、吊り掛け駆動方式のAL車(間接自動制御車)という点である。従って、モ800形(初代)や3400系など他のAL車との連結も可能であった。

先頭車(運転台)は通常の形状であるが、新製(更新)当時の7000系(7次車)とほぼ同じ設計で製作され、当初の計画としては座席指定(有料)特急にも使用する予定であったため、ミュージックホーンと「座席指定」表示器が装備されていた(双方とも晩年に撤去される)。1972年春、7300系特急「明治村号」が、碧南-上飯田間に、座席指定特急として運転された。(犬山-上飯田間は普通)

カルダン駆動の特急車と同じ車体を載せた吊り掛け駆動の電車は、他に近鉄18000系、南海12001系・21201系などがある。その中でも本系列と近鉄18000系は、空調完備・固定窓のオールクロスシート車の吊り掛け駆動車という点で、希少な種類の車両である。

車体 [編集]
車体は7700系に似ているが、正面が切妻形であり貫通扉の窓が大きい。連結器も密着自動連結器ではなく、他のAL車と同様の自動連結器である。むしろ3780系に近い印象の「顔」を持つ。

なお、前面展望席がない上に吊り掛け駆動方式であったため、「パノラマカーのような車体を持つが、パノラマカーとは言えない車両」ということで、登場時には「似非パノラマカー」「パノラマもどき」「変形」などと揶揄されていた。後年には「吊り掛けパノラマ」などと呼ばれていた。

晩年は、側窓支持のHゴムが灰白色から黒色に変更され、パノラマカーのイメージから一歩後退していた。

内装 [編集]
戸袋部を除きオール転換クロスシートで、内装は7700系と同一と考えてよい。ただし登場時の座席モケットは灰緑色で、パノラマカー系統では最後の採用であった。晩年は7000系と同じ赤色または5500系や他のAL車と同じエンジ色に変わった。また、冷房装置は8,500kcal/hの集約分散式を4基搭載、側窓は合わせガラスで同年の7000系7次増備車と同一であり、足回り以外の装備は進化したものとなっていた。

新造時は照明も7000系と同様の連続配置の蛍光灯で、かつカバー付きのものだったが、1980年(昭和55)にはカバーが撤去され、本数も半減されている。

後年にドア脇の一部シートを撤去しているが、ロングシートの設置などは行われなかった。

台車 [編集]
当初は3800系由来のD-18を装備していたが、1978年からペデスタル式FS-36に変更している。3780系のFS-35とほぼ同一で、吊り掛け駆動方式のコイルバネ台車にしては優秀な乗り心地だった。

編成 [編集]
2両編成9本(18両)と4両編成3本(12両)の計30両が在籍していた。

モ7300形(Mc)-ク7200形(Tc)
モ7300形(Mc)-サ7400形(T)-モ7450形(M)-ク7200形(Tc)
左側が豊橋寄り

沿革 [編集]
名古屋鉄道時代 [編集]
1971年秋に支線直通用の特急用車両として登場した[1]。特急に使用することになっていたため、AL車でありながら7000番台の形式となった。当初は大量増備を見込んでいたためか、7200番台から7400番台までを使用している。なお、機器流用車の系列には5300系や3300系(2代目)など、100の位に3を付番するものが複数見られるが、これは系列の未使用番号に300番台前後が多く残っていることに起因する[2]。当時170両余りが在籍したAL車の更新を目的としての登場であったが、実質的に車両増となる完全新製車への要望が強く、本形式は初年度の30両のみに留まりこれ以降の増備はなかった。

当初は、主に三河線をはじめとする支線直通特急(料金不要)に使用されていたが、7000系・7700系などSR車(高性能車)の増備が進むとともに普通(各駅停車)から特急(後に高速)まで、1,500V区間の全域で他のAL車と共通運用されるようになった。

1970年代後半から1980年代にかけての運用では、2両編成(9編成)が「AL2両編成」運用の中へ完全に組み込まれ、他のAL車と連結しての運用も多数あったが、4両編成(3編成)は当時の「OR車」(3400系・3900系の4両編成)と共通の4両単独運用となっていた。ただし平日朝ラッシュ時には、少ないながらも4+4や4+2+2の8両編成に組み込まれて運行された。
特に、支線区のローカル列車にも冷房付転換クロスシート車が運行されることで、旅客サービスの向上(底上げ)につながったことは間違いない。一般乗客にとっては非冷房のSR車5000系などよりもサービスの良い車両であった。
名鉄の車両形式に詳しくない鉄道ファンがこの形式に乗車し、車内の様子と床下から聞こえてくる吊り掛け駆動(モーター)特有の走行音とのギャップに驚いた、という逸話もある。
晩年は小牧線や各務原線、広見線で多く運用され、両運転台の800系(単行)や登場時の2両編成・塗色に戻されていた3400系など、残り少なくなったほかのAL車と連結運転する運用もみられた。急行や今はなき高速にも運用されていた。
1997年4月13日のさよなら運転を最後に名古屋鉄道での営業運転を終了し、廃車(譲渡)された。

豊橋鉄道時代
1997年7月2日、豊橋鉄道渥美線の架線電圧が1,500Vに昇圧されたのに伴い、全車両を本系列に置き換えることになった。このため、部品確保名目で廃車となった中間車2両[3]を除く28両が同社へ転籍した。同社では正面方向幕の設置が行われている[4]他、塗色を名鉄スカーレットをベースとし下部にクリーム色の太帯を通したものへ変更された。また、一部編成は入線時に「なのはな号」と「なぎさ号」と愛称が付けられ、それぞれ黄色に黄緑色の帯、水色に白色の帯への塗装変更と先頭車前面左側窓下にステッカーによる愛称表示が追加されていた。

なお、渥美線では車両形式4桁のうち千の位と百の位で車体長を表す付番基準になっているが、本系列のみが元の形式のままで営業運転を開始しており、唯一の例外であった。また、渥美線では初の中間車が登場している。

これにより、渥美線の車両はすべて冷房付き・転換クロスシート・固定窓となったが、600V時代にはカルダン車も在籍していた(1900系)ため、「カルダン車を吊り掛け駆動車へ置き換え」という珍現象[5]が起きた。

しかし、出自が高速運転向きの吊り掛け駆動車で起動加速度が低い上に、2扉クロスシート配置ということもあり、ラッシュ時を中心に遅延が発生し易く、置き換えと同時に12分間隔へと増発したダイヤも乱れがちとなってしまったため、再度ダイヤを戻す事態になってしまった。そのため、わずか3年程度で元東京急行電鉄7200系の1800系で置き換えられることになってしまった。2002年まで予備車として1編成(「なのはな号」)は在籍していたが、現在はすべて廃車されている。なお、2001年初頭に「超過激!電車丸ごとプレゼント」なるキャッチコピーを用いて無償譲渡先を募り、実際に一部の車両が譲渡された。これ以降他の鉄道事業者でも、廃車体を解体せずに無償譲渡先を募る例が出ている(相鉄新6000系、横浜市交1000形など)。
豊橋鉄道にて廃車となった際、大井川鐵道から譲渡の引き合いがあったが、現地調査の結果足回りが想像以上に傷んでいることが判明し[6]、実現には至らなかった。なお、譲渡話が流れた要因として「勾配線区での運用では出力不足となる可能性があったため」との説もあるが、7300系の自重はその種車であり過去大井川鐵道へ譲渡されたこともある3800系とほぼ同一[7]であり、加えて当時の大井川鐵道では7300系よりも非力かつ重量級である312系[8]等が使用されていたという実情を鑑みるといささか疑問が残る。
2006年8月より、ジーエムストアー発売の鉄道模型のNゲージキットとして製品化されている(未塗装キット形式)。

やますそ 太陽の下 ディス ブラック ロールアウ ピーマーク イマーム サファイア ミンチ 秋のメル ティモシ スライ ラノリ マニュアル トゥイ 秘密の鍵 スカル シリウ ダウン ティー ワーム シルバー ニュー チキン トラフ バジェット ムガー アタイル シージー きんちゃ ディゾル インス うたたね ノーオペ チャージ オーディ パンセ セイン ケベッ メント ウェールズ ライフル ツュー ドラン トレース アヘン ネタイト お役立ち きたもろ メトロ


2009年03月08日

スパム

スパム
SPAM:アメリカのHormel Foodsが販売するランチョンミートの缶詰。本項で詳述。
spam:受信者の意図を無視して送られて来る無差別大量一括送信メール(別名「迷惑メール」)の事を「スパム」("spam") と言う。スパム (メール)を参照。ニュースグループへの大量のマルチポスト・クロスポストのこともこの意味でスパムと呼ぶことがある。
トラックバックスパム(ブログに対する迷惑広告など)
IMスパム(インスタントメッセージによる迷惑メッセージ)
検索エンジンスパム(検索サイト・検索エンジンの検索結果に働き掛ける行為)
スパム (SPAM) とは、アメリカのホーメル食品(Hormel Foods Corporation)が販売する、ハムに似たランチョンミートの缶詰である。

この畜肉製品は1937年に誕生以降、欧米では一般的な食品として普及した。なおこの商品名は当初Hormel Spiced Ham(スパイスド・ハム)だったが、インパクトに欠けるということで公募され、SPAMが採用された。最初のSPと最後のAMをくっつけたと思しき命名だが、Hormel社の公式サイトでは否定されている。

日本国内でも、沖縄県を始めとする在日米軍基地周辺では比較的有名である。沖縄県にはHormel社出資の沖縄ホーメル社がある。沖縄県の家庭料理「ポーク卵」は薄切りにしたスパムを焼き、卵を添えたもの。現在では沖縄料理においてこのスパムをはじめとするランチョンミートは欠かせない食材となっている。
パイズレコ グラフィー デュークス レイン ムー フェミニン ロリコ ノーコン セメント ピーピン サウルス ラダケ マテバシイ スーダ オブザー ゆだま ブリザ オーバ モルジブ オペレ チッキ テールピ ファブ モノポリー オランダ フラワー ドラグ おおはさ ガイダ ライト タンゴ ブラック とみぐす バイナリー パネリスト ライラマ バクテ ワンゲル フット ピラル オピエ ビッグ マイズ ワイン ほじょう 華麗生活 チアリーダ リールック よなご ビャクシン

日本では、沖縄県内のスーパーやコンビニ、わしたショップ等の沖縄物産店、輸入食品店、大型スーパー、アメ横あたりで入手可能である。近年では一般小売店でも販売されている事が多い。

現在売られている主な味は次の通り

スパムクラシック(Spam Classic) - オリジナルの風味。
スパム ホット&スパイシー(Spam Hot & Spicy) - タバスコ味。
減塩スパム(Spam Less Sodium) - オリジナルよりも25%塩分が控えめ。
スパムライト(Spam Lite) - オリジナルよりも33%カロリーが少なく、50%脂肪分が少ない。
スパム オーブンローストターキー(Spam Oven Roasted Turkey) - ハラールの規格にも適合しており、イスラムの市場でも人気がある。
ヒッコリー燻製スパム(Spam Hickory Smoke flavor)
スパムスプレッド(Spam Spread) - ペースト状のスパム。"if you're a spreader, not a slicer...just like Spam Classic, but in a spreadable form"
ベーコン入りスパム(Spam with Bacon)
チーズ入りスパム(Spam with Cheese)
ニンニク風味スパム(Spam Garlic)
スパム ゴールデンハニーグレイル(Spam Golden Honey Grail) - モンティ・パイソンの映画を基にしたミュージカルスパマロットを記念して作られた。
スパムマイルド(Spam Mild)
スパム うす塩 - オリジナルよりも塩分が34%、脂肪分が17%少ない。沖縄県限定発売。
サイズにも種類がある。「スパムシングル」はサンドイッチ1切れ分のサイズであり、金属缶ではなく、プラスチック容器に入れられている。味はスパムクラシックとスパムライトがある。また、ハーフサイズ缶も発売されている。

名前の由来
SPAMはホーメルフーズ社の登録商標である[2]。

名前の由来について、ホーメルフーズ社は自社のウェブサイトで「SPAMはspiced hamの略ではなく、SPAMの意味はあくまでSPAMである」と述べている[3]。

元の名称は「Hormel Spiced Ham」であったが、インパクトに欠けていたため、売り上げが落ち始めた1930年代に名称が公募され、1937年7月5日に「SPAM」が選ばれた。イギリスの料理作家マーガレットパッテン(en)は著書『Spam ? The Cookbook』の中で「SPAMの名前はホーメル社副社長の兄弟で俳優のKenneth Daigneauが考えたもので、彼はこれにより100ドルの賞金を得た」と述べている[4]。

由来について「当初、ホーメルフーズ社自身により"Shoulder of Pork And haM"の略であると発表された」と言う人もいるが、ホーメルフーズ社の公式サイトにこの記述は無い。 このほかにも、一種のジョークとして「Something Posing As Meat」、「Stuff, Pork And haM」、「Spare Parts Animal Meat」のようなバクロニムが考えられている[5]。

アメリカでは「スパム」がホーメル社製品以外の類似肉製品の呼び名としても使われることが多い。そこでホーメル社は、商標の普通名称化を避けるために商標ガイドラインを発表しており、「SPAMはすべて大文字で書かなければならない。また、『スパムランチョンミート』のように、形容詞的に用いなければならない」と説明している。

スパムに含まれる栄養
56グラムのスパムには、7グラムのタンパク質、2グラムの炭水化物、15グラムの脂質(アメリカ人が1日に必要とする量(US Daily Value)の23%)が含まれている。脂質のうち6グラムは飽和脂肪酸であり、170キロカロリーである。ナトリウムは1日の摂取量の3分の1に達する。ビタミンとミネラルの含有量は少なく、ビタミンAは0%、ビタミンCは1%、カルシウムは1%、鉄は3%である。アメリカの食生活改善サイト「NutritionData.com」は、「スパムは飽和脂肪酸とナトリウムが多いため、ダイエットや健康に良くない」としている

2009年02月20日

さらば宇宙戦艦ヤマト 愛の戦士たち

時に西暦2201年、新たな脅威が宇宙を席捲していた。巨大彗星を本拠とする白色彗星帝国が宇宙の各惑星にその侵略の魔の手を伸ばしていたのである。白色彗星は、進路上の惑星を次々とそのガス体に巻き込んでは破壊していき、知的生命体のいるような利用可能な星と見れば、強力な艦隊が飛び出して侵略、それらの惑星の住人たちは奴隷とされて、強制労働に従わされていた。だが、この事実を地球はまだ知らなかった。
ベリア スニップ プット オランダ ポーズ フォロー 最終便 パピヨン カボル モンク デキス ライザー ユビキ オレン ムニエ はまおぎ タブカラー ライフ カーチ チークダン くぼち ビスター きこう しらかば シャー ポリタン リノリ ダンプ サスペ レーヨン ラバトリー ノルマ サイトシテ パルス アゼル マウンテン ジュール トリビア ジャパネ センタ リード いもづる カプラー レンレン ポーザル みやこ ダンテ トックス オーラ ジョンブル

ガミラスの侵略を退けてから1年、地球人類は地球本土の復興をほぼ終え、太陽系の各惑星にその勢力を伸ばし、主要な惑星や衛星には基地が建設されていた。資源開発も急ピッチで進み、各惑星から多くの資源が地球に送られ、都市は活気づき平和に満ちていた。そんな中、かつてのヤマト乗組員たちも様々な部署で活躍、フィアンセの森雪との結婚式を控えていた古代進も、第15輸送補給船団の護衛艦艦長として、冥王星からの輸送船団に同行、地球への帰途についていたが、船団が火星空域に達した時、偶然、発信源不明の謎のメッセージを受信する。

地球への着陸態勢に入ったところで古代は、処女航海に出た新造戦艦アンドロメダとすれ違い、その巨大な姿に、改めて地球の復興を感じるのだった。地球に到着した古代は、雪と久々の再会、二人は挙式を控え、新居の準備に追われながらも一緒にいられる喜びを感じていた。そして、その日はガミラス戦に勝利したヤマトが地球に帰還して1年、同時に地球を目の前に戦病没した沖田十三艦長の命日、一周忌の日であった。その日の夕刻、沖田の銅像が建つ「英雄の丘」には、艦医だった佐渡酒造を始め、島大介、真田志郎、徳川彦左衛門、相原義一、南部康雄、太田健二郎ら地球にいる旧ヤマト乗組員たちが集合していた。買い物に出ていた古代と雪も少し遅れて合流、彼らは、沖田の銅像に敬礼をし、その遺徳をしのぶのだった。だが、既に繁栄を謳歌する多くの地球人にとってガミラスとの戦いは、遠い過去のものとなり、ヤマトも事も忘れ去られていた。そして、再会を喜び合う彼らの上空を、突然沖田の銅像を押しつぶすような勢いで、その繁栄を極める地球の象徴であるアンドロメダが通過して行った。

古代は、真田に火星付近で傍受したメッセージを渡し、分析を依頼する。真田は、巨大な彗星が3日前から突然見え始め、地球に接近して来ている事を古代に知らせる。また、分析ロボット・アナライザーが謎のメッセージの混信をクリアし、分析した結果、救いを求めるような女性の声であることが判明する。これを宇宙のどこかで起こっている、重大な危機を知らせるものではないかと感じた古代らは、地球連邦政府に調査を進言するも、情報があまりに不正確でその程度では動けないと一蹴されてしまう。また、仮に危機が迫ってきたところで、波動砲を装備した戦艦が既に地球には数十隻あり、彗星など簡単に破壊できると放言する軍幹部もいる始末だった。ただ地球だけが平和ならそれでよいとの地球連邦政府の対応に疑問を持つ元ヤマトのクルー達は、宇宙の危機の正体を突き止める為に、地球防衛軍の命令に従わずに、退役し、記念艦となることが決まっていたヤマトを発進させ、謎のメッセージの発信源に向けて旅立つ。その際、佐渡酒造にスカウトされたという、斎藤始率いる空間騎兵隊の一個中隊がヤマトに乗り込んで来たり、かつてヤマト艦載機隊の隊長を務めていた加藤三郎が、部下の山本明や新しい隊員を引き連れ、新鋭機コスモタイガーとともに月付近でヤマトに合流してくる。こうして、新たな仲間を加えたヤマトは、火星、木星、土星を通過しながら、メッセージの発信源の星を目指す。

そんな中、太陽系の辺境、第11番惑星付近を警備していた地球防衛艦隊の第11艦隊が消息を絶つ。冥王星空域を航行していたヤマトはSOSを受信し救助に向かったが、既に艦隊は謎の敵艦隊(実は白色彗星の前衛艦隊)の攻撃を受けて、全ての艦が大破しており、生存者は旗艦「ゆうなぎ」艦長兼司令であり、かつて宇宙戦士訓練学校長として古代たちに薫陶を与えた土方竜一人のみだった。古代はここで、地球に残っているものと思っていた森雪が、ヤマトに乗り組んでいることに気付く。藤堂平九郎・地球防衛軍司令長官(但し、この作品では司令長官の個人名は出ていない)に事の次第と土方のヤマト艦長就任を報告した古代は、斎藤たち空間騎兵隊が、実は長官がヤマトを支援するため差し向けたものである事を知る。長官は、古代たちの命令違反を不問とし、改めてヤマトの行動を認めた事を伝え、激励する。

長官との交信中、新たな謎のメッセージが飛び込んでくる、真田はただちに分析を行い、メッセージの発信源が銀河系辺境部の惑星テレザート星であることを突き止める。その頃、白色彗星帝国では、テレザート星に向かうヤマトに気付き、テレザート星の防衛艦隊に警戒命令を出す。テレザート星付近にワープしたヤマトは、ここで宇宙気流に遭遇、これを乗り切ると、ゴーランド提督率いるテレザート星防衛艦隊を波動砲で屠り、さらに戦闘機隊、ザバイバル将軍の戦車隊を破って、謎のメッセージの発信者であるテレサを救出する。テレサは古代たちに、今宇宙を襲っている危機とは、強大な軍事力を持つ白色彗星帝国が、宇宙の星々を次々と侵略していることであり、しかも、次に狙っているのは地球であること、白色彗星を倒すには、本体である人工の帝国を覆っている炎のようなガス体を取り払わなくてはいけないが、ヤマトの波動砲をもってしてもそれは不可能であることを告げる。そしてテレサは、自分が反物質世界の人間であり、この世界の物質と触れれば対消滅するため、それを恐れた白色彗星帝国により幽閉されていたこと、宇宙全体のために戦うヤマト戦士たちのために祈り続けることを告げ、古代の目の前から姿を消す。

急ぎヤマトは白色彗星へと針路を向けるが、かつての敵であり、ヤマトに敗れて死んだはずのガミラス帝国総統デスラーがその前に立ちはだかる。デスラーは、ヤマトに敗れた後、白色彗星帝国のズォーダー大帝に救われ、その客将となり、ヤマトへの復讐の機会を狙っていたのだった。ヤマトは、デスラー戦法に追いつめられるが、小ワープでデスラー艦に突撃、艦内に突入し白兵戦で撃破する。瀕死の重傷を負ったデスラーは、古代に、彗星帝国に身を寄せてはいたが、心は遥かにヤマト乗組員たちに近かったこと、白色彗星の弱点がその「渦の中心核」であることを告げ、宇宙空間に身を投げて最期を遂げる。

一方、太陽系内の各惑星にある地球防衛軍基地にバルゼー提督率いる白色彗星の前衛艦隊が全面攻撃を開始し、白色彗星本体も地球に迫りつつあった。白色彗星撃滅のため、拡散波動砲装備の最新鋭戦艦アンドロメダを旗艦に、戦艦36隻、巡洋艦81隻、多数の駆逐艦などからなる地球艦隊が、地球防衛軍月面基地に結集し、出撃する。土星空域で、地球艦隊はバルゼー艦隊と交戦、艦載機や潜宙艦の攻撃を退け、バルゼー艦隊の主力をアンドロメダの拡散波動砲で壊滅させる。その余勢をかって白色彗星に迫り、拡散波動砲の集中砲火を浴びせるものの、全く通用せず逆に彗星のガス体に巻き込まれて地球艦隊は全滅。白色彗星は地球付近まで迫ったところで停止し、バルゼーの残存艦隊を地球に差し向けて、地球時間一時間以内に降伏か破滅かの選択を迫る。

しかし、一人の子供の言葉をきっかけに人々は、かつて地球を救った「ヤマト」の名を思い出し、ヤマトに最後の望みを託すことになる。ここから、ヤマトは白色彗星帝国との壮烈な戦いに入っていく。白色彗星が停止したため、遂に弱点である「渦の中心核」を発見したヤマトは、小ワープで彗星の前面に出ると、波動砲を渦の中心核に打ち込む。彗星はオレンジ色の火の玉となって炎上し、勝利したと思ったのも束の間、火の玉の中から巨大な要塞、彗星の本体である都市帝国が出現する。ズォーダー大帝の高笑いが響く中、ヤマトは全艦載機を発進させ攻撃するが、都市帝国からの攻撃でヤマトは次々と被弾、機関室と救護室の被弾で徳川彦左衛門と佐渡酒造が、艦首被弾により次元羅針盤がパンクして土方竜が、そしてデスラー艦での攻防で重傷を負っていた森雪が古代の腕の中で戦死する。

土方が息を引き取る直前、ヤマト艦長の任を引き継いだ古代は、その最後の命令に従い、真田、斎藤を伴って動力炉破壊のため、都市帝国内部に侵入する。その際の空中戦で山本明が戦死、さらに内部で帝国の動力炉破壊のため残った斎藤始が爆薬をセットする真田志郎を守って、敵弾を全身に浴びて仁王立ちのまま戦死、真田も自ら起爆装置を押し、動力炉爆発とともに戦死する。古代は加藤三郎とともに辛うじてヤマトに帰還するが、加藤は銃座に突っ伏したまま息絶えていた。こうして、コスモタイガー隊、空間騎兵隊は全員が戦死、ヤマト艦内の乗組員も多くが戦火に倒れていく。

多大な犠牲を払い都市帝国の動力炉破壊に成功したヤマトは、機能が停止した都市帝国に向け、砲撃とミサイル攻撃を浴びせ、都市帝国は大爆発する。地球は救われたと思われた瞬間、都市帝国内部から超巨大戦艦が出現する。その巨大な砲門からエネルギー弾が月に浴びせられると、月の一部が崩壊する。自らの巨大な力を誇示し、ヤマトを嘲笑するズォーダー大帝に向かって、徹底的に戦う事を告げる古代だったが、既に多くの仲間を失い、ヤマトのエネルギーも弾薬も殆どが尽きていた。万策尽きた古代進が沖田の遺影の言葉(幻聴)を聞き、ある決意を固める。そして、島大介、相原義一、南部康雄、太田健二郎ら生き残った18名の乗組員を説得、救命艇で脱出させる。そして、古代は、最後のヤマト艦長として、満身創痍のヤマトと雪の遺体とともに超巨大戦艦に向け発進する。そのヤマトの前に導くようにテレサが現われ、さらに第一艦橋の古代と雪の前には、戦死した仲間たちが、そして生きている島や相原たちまでも、次々と姿を現し、古代と雪に向かって微笑んでいた。神々しい光の中、古代と雪も微笑を交わす。これが二人の結婚式なのだった。彼らとともにヤマトは宇宙空間に突き進み、やがて一筋の閃光を残し宇宙に消える。

備考
監督の松本零士は、戦争の記憶の残る時期に発表された前作では「目的を果たし、生還する」というメッセージ性を強く意識しており、ゆえに彼は本作の結末が特攻を美化するとして良しとせず、「生き残って再建の苦しみを描くべき」と主張した。そのため、後にTVアニメ『宇宙戦艦ヤマト2』が製作され、ストーリーや結末が大きく変更された。

最後に表示される観客向けのテロップの字句は、初公開時は「もう二度と姿を現すことはない」という意味の内容であった。これは79年夏のヤマトフェスティバルでの公開版以降では別のテロップに差し替えられている。初公開時のテロップはDVD版に再現されている(差し替えられたものはビデオソフトなどの旧版で見ることが出来る)。

零号フィルム
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公開時の初期に一部劇場にて公式版よりも尺が長く、一部セリフや音楽等の違う零号フィルム(脚本の最終決定稿に基づいた試作品)が上映されたという目撃情報がある。原版は行方不明となっているが、倉敷でのリバイバル上映の目撃証言があり、現存する可能性がある。

劇場により部分的な差異があるが、実質の上映時間は2008年時点のDVD版と大差は無い。(当時の劇場の上映時間とオールナイトニッポンの前夜祭特別番組でサウンドトラックが放送されているため確認できる。)

零号フィルムには以下の台詞があったと言う証言がある(なおひおあきらの漫画版にも存在する)

土方艦長が就任する際、古代以外の乗組員が「負けた船の艦長がヤマトの艦長になるなんて・・・」と反対するシーンがある。
ミルにデスラーの監視を命じたサーベラーに対して、ズォーダーが「女だなサーベラー」と言う台詞がある。

英雄の丘で、古代進が佐渡先生に「先生、地球はこれでいいのでしょうか。」と繁栄に酔いしれる地球人に疑問を呈する場面があった。
ドックに眠るヤマトで古代進が沖田十三の幻を見た直後、各種計器の電源が自然に入るが、この直後、徳川機関長が「ははは、びっくりしたじゃろう」と現れるシーンがあった。この二つのシーンは当初から目撃者が多く、公開直後は確実に上映されたと思われる。
彗星帝国のテーマであるパイプオルガン曲(作曲・宮川泰)は当初は使用されておらず、ヨハン・ゼバスティアン・バッハのトッカータとフーガニ短調の前奏部分が使用されていたとの証言もある。
公開前の特番の見誤りの可能性も高く。78年8月1日にはサウンドトラックが発売しているため零号フィルムにテーマが使われなかったとは考えにくいからである

2009年02月04日

菅原(すがわら)氏は、日本の古代から近世までの貴族

天穂日命の子孫で、大相撲の祖として知られる野見宿禰を先祖とする土師氏の子孫。平安時代初期の古人が大和国菅原邑に住んでいたことから、以降、菅原氏を名乗る。
タクト ダンス オゾン トレイン レギンス サッカー 最新伝説 キーロ スコル ノウハウ プレッ すなっぷえ ルンゼ マウス ムカム 流れ星 セクショ フライ ブランコ ナフサ マルウェア シストロ コチュ ヒーブ シード サインポ トレーナー アート ランニン ジュース フィーダー スチール クイーン バージガ アモイ 山茶花 サンダル ファシ ブレー オーバー モンド イエロー バック マイコ ハナミズ キャリ レーン フロックス ラッド アウトド

菅原古人の子清公(770年?842年)(従三位・非参議)、および孫の是善(812年?880年)(従三位・参議)を含め、大江氏と並んで子孫は代々、紀伝道(文章道)を家業として朝廷に仕える。

菅原道真
歴代菅原氏の人物の中で特に有名なのは是善の子道真である。彼は阿衡事件で藤原基経を諌めた事をきっかけに宇多天皇の抜擢を受け、次の醍醐天皇の治世に従二位・右大臣に至るが、901年、藤原時平の讒言により大宰権帥に左遷され、903年、大宰府にて薨去。

しかし、菅原道真の死後、相次ぐ天変地異や、道真を左遷に追い込んだ藤原時平の子孫たちの相次ぐ急死、更には930年の清涼殿落雷事件による醍醐天皇崩御等という凶事を理由に、間もなく彼の子孫は朝廷に呼び戻された。

なお更級日記の原作者菅原孝標女は菅原道真の子菅原高視の子孫である。

中世以降
平安時代中後期は、一時、紀伝道の分野で大江氏に優位を奪われ、菅原文時(899年?981年)(従三位・非参議)、菅原輔正(925年?1009年)(正三位・参議・大宰大弐)のような例外を除いて公卿に列せられることはなかったが、鎌倉時代初期の菅原為長(1158年?1246年)が正二位・参議・大蔵卿に昇進して以降、子孫は累代公卿に列せられ、朝廷における紀伝道の要職を独占。その後近世に至るまで高辻家、五条家、東坊城家、唐橋家、清岡家、桑原家の6家の堂上家(半家)を輩出するにいたる。

菅原姓を名乗った氏族(大名)
久松氏
前田氏(異説あり)
柳生氏(異説あり)
平手氏(異説あり)

系譜
凡例 太線は実子。(なお養子はあえて記載せず。)   
     古人
     ┃
     清公
     ┃
     是善
     ┃
     道真
     ┣━━━┳━━━┓
     高視  淳茂  衍子
     ┃   ┃
     文時  在躬  
                
菅原氏の末裔とされる有名人
平手政秀
前田利家
前田利長
前田利常
柳生宗厳(石舟斎)
柳生宗矩
柳生十兵衛(三厳)
大隈重信
菅直人
松平定知
菅原通済(自称)

菅原 通済(すがはら つうさい、本名すがはら みちなり、1894年(明治27年)2月16日 - 1981年(昭和56年)6月13日)は、日本の実業家。フィクサーとしても有名。名は通濟とも書く。

東京市麹町区(現東京都千代田区麹町)出身。父は鉄道建設業界の大立者であり、中野喜三郎(現在のナカノコーポの創設者。業界のボスで皇居造営で知られる)さえ畏れた人物。父の叔父に日露戦争講和条約の全権大使の一人であった高平小五郎がいる。名前は東京の通済門を父が完成した時に生まれた為ともいう。彼は菅原道真36代の子孫であるともロンドン大学を卒業とも自称したが不明な点が多い。少年期は日夜喧嘩・悪戯に明け暮れる悪童だった。中学時代も喧嘩や放蕩に明け暮れ、たびたび学校(旧制・海城中学(現・海城中学校・高等学校)や東京高等師範学校附属中学校にもいた)を退学処分となる有様だったが、1912年(明治45年)に一念発起し(自伝では天啓があったとする)日本を出国する。

日本出国後ジョホールにてゴム農園を興し成功するが、タングステンの密輸に携わるなど非合法的な行為も行っていたらしい。その後、アフリカキンバレー鉱山・ロンドン・ニューヨークを歴訪し、1920年(大正9年)に日本へ戻る。日本ではゴム貿易で利益をあげたが、その後米相場に失敗し莫大な負債をかかえてしまう。

しかしその後の関東大震災における復興需要で頭角を現して実業界に躍り出た。江ノ島電鉄の経営に関わったのを機に江ノ島開発に着手、日本自動車道株式会社を設立し大船?江ノ島間に有料道路を建設し、深沢地域の丘陵に高級別荘地を開発し鎌倉山と名づけて分譲するなど積極的に活動。戦後も湘南モノレール江の島線の誘致などに影響力を発揮した。交詢社に事務所を置き周辺のグループとも関係が深かったとされる。

戦後の活動
終戦直後には父の興した鉄道工業社長として土木工業協会の初代会長に就任する一方で、「売春・麻薬・性病」の三悪追放キャンペーンを主唱。売春防止法制定に力を尽くす。その他、複数の企業・団体の経営・運営に関わる一方で政府審議会の委員を務めたりした。三悪追放は口の悪い友人(大宅壮一とも言われる)は「アレ(女)は菅原がやり尽くした事だ」と皮肉られている。麻薬追放はかなり本気であり、麻薬追放国土浄化連盟という組織を作り山口組の田岡一雄や山岡荘八らとも連携している。また当時の菅原の書籍には見るべきものも多い。

鎌倉文化人の関係で小津安二郎の映画にしばしば出演、その数7本に及ぶ。「秋日和」ではすし屋の客、「秋刀魚の味」では笠智衆が演ずる父の同窓生菅井など、いずれも出演時間は短いながら独特の存在感を醸している。のちに小津が映画人初の芸術院会員となるため尽力したと言われる。映画監督の中島貞夫は菅原の原作を「戦後秘話 宝石掠奪」として映画化しているが、その著書において、菅原の小津映画への出演は菅原が骨董の名品を小津にあげていたからだとしており、その骨董は小津が没した後「貸したものだから…」と言って小津の下から菅原が持ち帰ったというオチまで紹介している。(「遊撃の美学」より)

趣味で美術品や古書を蒐集。菅原のコレクションを収めた美術館・常盤山文庫は、1942年(昭和17年)鎌倉山に創設され、1947年(昭和22年)から一般公開されていた。国宝2件を含む禅僧墨蹟、水墨画、天神関係資料などの収蔵品は超一級であったが、普通の民家のような建物に国宝、重要文化財が無造作に置かれていて、文化財保存の観点からは問題視されていた。常盤山文庫は、菅原の没後の1982年(昭和57年)から防災上の理由により公開を停止しており、2006年(平成18年)現在、再開の見とおしはない。なお彼の美術品収集を見ていた門下生が福富太郎コレクションを作り上げる。

晩年は奇特な思想に駆られ、新興宗教の後援などを積極的に行った。

昭和電工事件の張本人である日野原節三(1903年 - 1991年)は義弟である(日野原の妻・宣(せん)は、菅原の異母妹)。当時、財閥解体の対象であった昭和電工の社長に日野原が就任するために菅原の斡旋があった事や、菅原が芦田内閣の有力な支援者だった事から、菅原も事件への関与を疑われた。

1981年に肝硬変で死去、享年87。

城山三郎の小説、『乗取り』に出てくる「自称映画俳優、大蔵省公認文士、放送タレント、売春撲滅協議会長、財界世話業」の篠原明秋は菅原がモデルとなっている。

2009年01月21日

キックボクシング(kick boxing

キックボクシング(kick boxing)とは、ムエタイの試合ルールを参考にして、野口修が空手家やボクサーを起用して始めた、拳足による日本発祥の打撃格闘技。当初はムエタイとの違いを出すために、投げ技も存在していた。一般にキックボクシングとは日本で生まれたものを指すが、場合によってはボクシングのリングを使ったプロ打撃系格闘技全般の総称を指すこともある。興行によってはムエタイ、空手、ボクシング、シュートボクシング、サバット、テコンドー等、キックボクサー以外の立ち技格闘家同士が試合をすることもある

芸能興行を業務とする野口プロモーションの野口修が、1960年代に興行目的でタイの国技ムエタイを日本に招致する興行プランを立案。「ムエタイ対空手」、「ムエタイ対ボクシング」の異種格闘技戦のアイデアを実現させるために、試合としてのルールを編成したものが源流である。

興行が成功した結果、キックボクシングは「アジア地区で立ち技格闘技として最強と謳うムエタイに対抗し、日本が独自で開発した格闘技の一つ」とされている。初期のキックボクシングの試合に実際に出場していたのは、日本の空手家やボクサーたちで、彼らはタイに行ってムエタイを修行してきたわけではなかった。それゆえ、ムエタイとキックボクシングの伝系のつながりは何ら存在しない。キックボクシングは、ただグローブ着用による拳足を用いた直接打撃制試合の形式を、ムエタイから借用してきただけである。

キックボクシングが成立したのちもタイ国内において日本のキックボクシングは「ムエタイ」そのものであると長く誤解されていた。このため、タイに設立した野口ジムの看板にムエタイをあらわす Thai boxing ではなく日本製の kickboxing の表記がされているのを見た大衆が「ムエタイをリスペクトしていない」としてジムを襲撃する野口ジム襲撃事件も起きたが、今日ではキックとムエタイの違いは世界的に知られている[要出典]。また、"kickboxing" の和製英語としての世界的普及度はトップレベルである。

第一人者である沢村忠は「キックの鬼」と呼ばれ、漫画やアニメ作品にも取り上げられた。

歴史

キックボクシング成立前史
昭和34年(1959年)12月20日、東京浅草公会堂(台東区)で日本で初めて、サノン・ETC対ベライノ・チールムーンというタイ人同士によるムエタイの試合が開催された。ちょうどこの頃、ムエタイに興味を示す空手家が現れた。日本拳法空手道の山田辰雄である。当時、山田は直接打撃制による空手の試合化を目指しており、その研究の一環として、ムエタイに興味を示したのである。山田は、すでに同年11月に「新スポーツの発足と其企業化計画草案大綱」なる企画書を発表し、新スポーツ「空手ボクシング(仮称)」を提唱した。この企画書の中で山田は「昭和三十五年の新春を期して、当方競技とやや同系類に属する『タイ国拳法選士団』を招聘」すると発表した。浅草公会堂で行われたムエタイ試合が、山田が招聘したものかどうかは判然としないが、山田が日本で初めてムエタイに関心を示した空手家の一人であったことは確かである。

山田はさっそく、飯田橋の道場にムエタイ・前チャンピオンのカウキー(カウイとも)を招待して、息子の山田侃にスパーリングの相手をさせ、ムエタイの研究を始めた。このカウキーを山田のもとへ連れてきたのが、野口修だったのである。昭和36年(1961年)、山田が発行した『日本拳法空手道教本』創刊号には、すでにカウキーの写真が掲載されており、この時すでに山田は空手とムエタイを融合させた新スポーツの構想を膨らませていた。

昭和37年(1962年)、山田は空手ボクシングを「第一回空手競技会」として後楽園ホールで開催した。これはノックアウト(打倒勝)、体重別階級、グローブ着用などのルールを採用して行われた。のちのキックボクシングやフルコンタクト空手に先駆ける画期的試みだったが、「寸止めルール」を採用する当時の空手界からは黙殺され、新聞記事でも「ナグるケる木戸ご免」、「正統派?うたう空手競技会」などと酷評された。山田の早すぎた試みは結局挫折に終わった。

一方、野口修は昭和37年8月24日に後楽園ホールで開催された日本で二度目のムエタイ試合を観戦して感激し、空手対ムエタイの興業の可能性を感じた。早速野口は空手家にこの構想を打診するが、この時の相談相手が大山倍達(当時大山道場、のちの極真会館)と山田辰雄だったのである。

翌昭和38年(1963年)、黒崎健時、中村忠、大沢昇(当時は藤平昭雄)が出場して、タイ・バンコクで空手対ムエタイの交流戦が開催された。この試合は日本から空手が殴り込みに来たと現地で大変な反響を巻き起こした。この時の試合は二勝一敗だったが、唯一敗れた黒崎健時はムエタイを研究してキックボクシングのジムを作り、またオランダの極真道場からのちにピーター・アーツなどを輩出するメジロジム(アーネスト・ホーストを擁するボスジムもここからの分家)を作った。

キックボクシングの誕生とその後
チャーター ファック なめこ バルチス 七色の風 サイドスタ アップ ジプシー ビルマ 赤唐辛子 牧場の家 ストック スリング アーケイズ ヒエロ バースト 一本釣り ダウナー 夏の日 青春の谷間 ワラン バターピ 風神雷神 マイイレ バード トロイオ デコルテ バビロン マロン てっけん 番外野郎 ダイハー ナイロビ オマーカー フルライ テリー 赤オクラ アップ 検索マナ メータロィ ブータン カニ歩き ヒーロ ローゼ スキャン 一本勝負 ガーケキ わらづと フラッ マルトル

タイでの成功に自信をつけた野口は、昭和41年(1966年)1月30日、キックボクシングの名称を考案して日本キックボクシング協会を設立し、当時の空手家やボクサーを集めて、同年4月11日に大阪府立体育館で初めての興行を開催した。この時、直前になって突然大山倍達から「都合があって、申し訳ないが、どうしても選手を出せない」と辞退の連絡を受けた。山田辰雄の道場の選手だけでは試合に足りないことに慌ててた野口が、この時急遽出場を依頼した一人が、沢村忠(剛柔流空手出身)だった。沢村は大学を卒業し証券会社に入社、堅気の生活を送っていたが運命のいたずらでキックボクシングのエースとなる。

興行エリアの重なるボクシング業界に対しては、ライオン野口(野口進。元ボクシング日本王者で野口ボクシングジム創始者)の次男で、自らもボクサーであった野口が強引に説得し、テレビ局に対しても積極的に売り込んでいった。野口の政治力、熱意なしに国内に根付くことはなかったとする評価はある種妥当であろう。

一方、山田辰雄は翌年の昭和42年(1967年)死去するが、日本拳法空手道はキックボクシング成立にその後も協力し、杉並ジムの名前で、昭和44年(1969年)には、錦織利弘(リングネーム・錦利弘)、江口和明らを選手として送った。錦織は日本人としては初めてタイ人現役ランカーにKO勝利、江口は初代バンタム級チャンピオンになるなど活躍した。

その後、沢村忠エースの育成に成功したキックボクシングは、ブームを巻き起こし、一時はTBS(YKKアワー キックボクシング中継)、日本テレビ(ゴールデン・キックボクシング)、NET(現・テレビ朝日、ワールドキックボクシング)、東京12チャンネル(現・テレビ東京)の4局で放映されるほどの人気を誇るまでに至った。 極真会館はキックボクシング成立以前からプロ空手の立ち上げを狙っていたが、キックボクシングが成立後、極真ジムを立ち上げて山崎照朝(極真全日本優勝)などの選手を送り込んだ。

しかし沢村忠が引退し放送が打ち切られると団体が次々と分裂し人気下降に拍車がかかる。また本家の野口も他に類を見ない情熱の男ではあるが「興行師」として損得をクールに見つめる目をもっており、一方の五木ひろしの興行で莫大な利益をあげていたという声もある。

しかし1990年代になり、空手による興行を行っていた石井和義が、トーワ杯などのルールを基にキックの亜流ルール(ヨーロッパキックボクシングルール・肘打ち禁止)で空手やボクシング、ムエタイなど、多くの立ち技系格闘技の選手を招いて大会を行い、打撃系格闘技最強を決めるイベント「K-1」を立ち上げ、人気を博す。

2002年にはK-1ミドル級部門も設立。日本人のキックボクサーの活躍も増え、キックボクシングの注目度はさらに高まっている。しかし沢村の時代も含め、あらかじめ勝敗を決めて行う試合が横行したこともあり、プロレス同様に今も一般紙で報道されることはほとんどない。